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オリジナル半纏、はっぴ製作の京屋染物店 / 紺屋の小話
以下の文章には、歴史的背景や各種書籍、言い伝えなどを元に推測した内容も含まれています。
専門的研究をしているわけではございませんので、必ずしも正確な内容ではありませ。
数ある話の中の一説としてお読みください。
半纏と法被の話

日本の衣装
衣装を作る上で欠かせない養蚕技術が中国から伝わったのは3世紀前半のようですが、一説には1世紀頃にはすでに日本に伝わっていたとされています。5世紀前半から6世紀(推古天皇や聖徳太子がいた時代)には、中国文化の影響を受け、機織技術、染色技術がさらに発展していきます。製糸・織縫・染色の技術向上もあり、603年には衣装の色で位階を分けた「冠位十二階」が定められました。このころの人々の衣装、その仕様についての統一の決まり事はなく、襟の合わせも着る人によってそれぞれ。左前の人もいれば、右前の人もいるという具合だったようです。奈良時代7世紀前半には衣服についての「着こなし」が定められ、皇族から一般庶民に至まで、着る服の色まで決められました。この頃になり、日本衣装の決まり事である「襟は右前に着る」というのも決まったようです。
 平安時代になると、中国から「半臂(はんぴ)」という衣装が伝わりました。「半臂」は、着丈は腰くらい、袖幅は肩と臂(ひじ)の半分ほどで、皇族、貴族にだけきる事を許された衣装の一つです。朝廷の公事の際、宮中に参上する時に着用する装束で、官位によって色が異なる「袍(ほう)」と言われる上着の下に下着類をまとめる為に着る短衣です。
 この半臂が半被、法被、半纏のルーツだという説もあります。

法被と半纏の違い
 ここで、まずは法被と半纏の違いを簡単に説明しておきます。
 現在では法被も半纏も区別なく、名称として使われていますが、皆さんが通常目にされたり、着用されたりしているのは「半纏」です。半纏も法被も羽織とは違い、襟を折り返さずに着用しますが、法被は胸紐を付ける乳、もしくは胸紐があり、半纏にはそれがありません。また、法被の場合、広袖のものもありますが半纏には広袖はありません。
 半纏と法被は仕様の違いの他に、着用する場面も違います。特に職人の世界ではハッキリと分けられています。今で言えば、半纏が作業着やスーツ、法被は燕尾服やモーニングなどの礼服といったところでしょうか。ですので、法被に使う生地は半纏とは違い、上等なものを使用するのが通例で、年に1〜2回着るか着ないかという特別なものでした。職人にとって、法被は半纏よりも格上の上等品ということなのです。

半被(はっぴ)、法被が生まれた背景
 江戸時代になると商業が盛んになり、職人、商人たちが富みを得て、町人文化が咲き誇りました。大店などは、豪華な羽織に身を包み、人々は衣装のお洒落を競うようになりました。しかしこの頃の幕府の財政は逼迫しており、下級武士や中間(雑兵)などは、羽織を簡略化した半被を着ていました。半被は羽織の様に袖の袂はなく広袖または筒袖で丈は腰から膝くらい。材質も絹ではなく木綿。もちろん羽裏などはなく単仕立てです。羽織に比べ、かなり劣るものでした。
 では、半被が法被に転じたのは、なぜでしょう。これは推測ですが、士農工商の身分制度がある時代に商人が着ている羽織よりも劣る半被を、法被(禅宗の高僧が座る椅子の背もたれの部分に掛ける金襴などの掛け布)の高貴なイメージと重ねることで価値を見出したかったという意図があったのではないでしょうか。これは武家と禅宗の繋がりからも推測できます。
 禅の日本伝来というと鎌倉時代に臨済宗を中国から伝えた「栄西」が知られています。この頃は、保元の乱、平治の乱から治承寿永の乱と続く、戦乱の時代。魂の救済を求める人々が溢れかえっていた背景もあり、浄土と禅の二宗派が時代を支配し、僧兵の武力を通じて政治権力を持つようになりました。また、幕府が仏教の一般大衆化を推し進めた時代でもあります。このような状況の中で、浄土宗と武家の絡みの無い一方、禅宗は武家社会にうまく溶け込み、武士階級に受け入れられたのです。これにより、禅宗は武家政治に深く関わり、茶道・華道などの文化と共に大きく発展してきたのです。
 このことからも、武家は禅の教えを学んだことは間違いなく、仏教用語の「法」の意味と重要性も認識していたはずです。また、禅の法被のことも知っていたはず。江戸時代の士農工商という階級制度にありながら、商人より劣る衣服を身に纏う空しさから少しでも逃れようと、半被(はっぴ)と法被を重ね合わせたのではないでしょうか。

半纏の広まり
 江戸中期の逼迫した財政状況の中、大変貴重な反物の節約という視点から登場した法被は、羽織よりも手軽に作れる上等品ということで広まりました。お寺や大店は、出入りの職人などに家紋や店名の入った法被を配り、権威と絆を示すものの一つとして用いました。
 印半纏が着られるようになったのもこのあたりだという説もありますが、様々な書籍や歴史を調べてみると、半纏は法被が出回る前から職人の間で広まっていたようです。昔は現代と違い、生地を作るのもかなりの手間で貴重なもの。いくら町人が裕福だからとはいえ、衣類はとても大切に使っていました。太物1反で2着作れるこの半纏は、生地、衣類を大切にする時代を背景に浸透し、「半反モノ」と呼ばれ、それが転じて「半纏」と呼ばれるようになりました。(身の半分、腰くらいまで纏う意味で半纏だという説もあり、地方によっては「半分、中途半端」の意味をなす「はんちゃ」と呼ばれ、主に綿入り半纏のことを指します)
 半纏は江戸の花形である火消しが「半纏」をきていた事や、江戸後期の天保の改革で羽織の着用が禁止になったことから、急速に広まって行いくのです。

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